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東京高等裁判所 昭和50年(ネ)1659号 判決 1977年10月06日

控訴人

梅本直人

右訴訟代理人弁護士

中平健吉

河野敬

大野正男

広田富男

被控訴人

学校法人

青山学院

右代表者理事

大木金次郎

右訴訟代理人弁護士

本多彰治郎

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  被控訴人は控訴人に対し、金三〇万円およびこれに対する昭和四八年八月一八日から支払済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

3  控訴人のその余の請求を棄却する。

4  訴訟費用は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を控訴人の、その一を控訴人の負担とする。

5  この判決は、主文第二項につき、担保として金一〇万円を供託するときは、仮に執行することができる。

事実

控訴人訴訟代理人は、第一時的請求として、「原判決を取り消す。被控訴人は控訴人に対し、昭和四八年度被控訴人青山学院大学大学院文学研究科聖書専攻修士課程の入学試験施行義務があることを確認する。訴訟費用は第一、二審とも、被控訴人の負担とする。」との判決を求め、右確認請求に対する第二次的請求として、「被控訴人は控訴人に対し、金一〇〇万円およびこれに対する昭和四八年八月一八日から支払済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。」との判決を求め、被控訴人訴訟代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」旨の判決を求めた。

当事者双方の事実に関する主張及び証拠関係は、次に附加訂正するほか原判決事実摘示のとおりであるから、これをここに引用する。

一、控訴人主張

1  第一次的請求について

原判決二枚目裏一〇行目「契約」の次に「(以下「本件就学契約」ともいう。)」を、同三枚目表三行目「ものである。」の次に「この趣旨は、控訴人に特有なものではなく、学部課程神学科に入学したすべての学生の就学契約の内容に共通するものである。」を、四枚目裏三行目「修業」の次に「のみ」を各附加し、同行目「少くとも」から同五行目までを「学校教育法による学制にとらわれず、少くとも更に大学院における二年間の修士課程を含め、学部及び大学院を通じて六年間の一貫教育方法をとることが必要である。このことは、被控訴人と同様にキリスト教伝道者養成及び神学研究のための教育を施す諸大学、たとえば、東京神学大学、同志社大学、関西学院大学などにおいてもまた、六年間をもつてその専門教育の期間と定めていることからも明らかである。学校教育法は大学学部と大学院とを制度上区別し、それぞれの修業年限を定め、かつ、これに適合する一応のカリキユラムを作成することを命じているが、このことは、学校設置者が上記のような目的から学部課程四年と大学院修士課程二年をあわせてさらに完成度の高い六年間の一貫したカリキユラムを作成することまで禁止するものではない。なお、学部神学科卒業生に対して修士課程入学試験を実施するのは、実質的にはその必要がないけれども、外部からの入学者にも門戸を開くため形式上一率に試験を実施せざるをえないためであり、右の事実は学部教育と大学院修士課程教育とが完全に区分切断されていることを意味するものではない。」と、同六枚目表六行目から七行目「と神学科終了者との間にはその受験科目の数に差異があり」とある部分を「については教団関係法令及び説教のみが試験科目とされ、他の専門科目はすべて免除されており、実質的にみても、修士課程を終了しないかぎりその試験に合格することは困難であり」と各訂正し、同八枚目表五行目「主任」の次に「田島教授」を附加し、同裏五行目以下の「(5)」の部分を次のとおり訂正する。

「(5) 以上のように、伝道者養成及び神学研究のための教育が神学科における四年の修業では足りず、修士課程の履修を終えてはじめて完成されるものであり、そのために被控訴人大学においても学部課程と修士課程を通じて六年間の一貫教育を施すことを当然の前提としてそれぞれのカリキユラムを定めているのみならず、あらかじめ就学希望者に対してその旨及び伝道者を志望するならあらかじめ学部においてそのために用意されたコースを選択し、かつ、大学院の聖書神学修士課程をも履修すべきことを公に表示し、これに対し伝道者または神学研究を志望して就学しようとする者は、右の表示に依拠し、被控訴人大学における学部神学科及び修士課程の履修を通じて完成される伝道者養成及び神学研究のために一貫した教育を受けられるものと信じて神学科を志望し、これに入学するのであるから、右公示された表示内容は、当然に被控訴人と神学科に進学した学生との間に成立する就学契約の内容をなし、右契約により、被控訴人は、神学科に入学した学生に対し、神学科における伝道及び神学研究のための教育またはキリスト教教育関係事業のための教育を施すことのほか、伝道及び神学研究を志望する学生に対しては、更に入学試験に合格することを条件として大学院の聖書神学修士課程の教育を施す義務をも負担するにいたるものと解すべきである。したがつて、控訴人と被控訴人間に締結された本件就学契約上、被控訴人は上記入学試験実施義務を有するものといわなければならない。」

2  第二次的請求について

原判決九枚目裏四行目「精神的損害」とある部分を「精神的苦痛」と、同「蒙つたから」とある部分を「蒙つたところ、この点につき被控訴人には故意または重大な過失があるから、」と各訂正し、同九行目「2」を「(一)」と訂正し、その次に行を代えて次のとおり附加する。

「学校教育法に基づき設置される学校は、国民の教育を受ける権利にこたえて国民に対し教育という役務を提供する公共的、社会的責務を荷うところの公の施設であつて、このことは国公立の学校であると私立学校であるとを問わない。それ故、いつたん設置された学校は、かかる公の性質を有する施設としてその目的である教育役務を継続して提供する義務を負い、ほしいままにこれを中止したり廃止したりすることを許されないのである。私立大学の学部学科の設置、廃止が法律上行政官庁の認可事項とされているのは、学校のもつ上記性格を反映したものにほかならない。学部学科の学生募集の停止自体は右のように法律上の認可事項とはされていないけれども、それがもつ実質的意義は学部学科の廃止となんら異なるところがないのであるから、学校のもつ上記性格と学部学科の廃止が法律上認可事項とされている趣旨に照らし、私立大学当局が正当の理由なくしてほしいままに学生募集を停止することは、それがもつ継続的教育役務提供義務に違反し、また学部学科廃止に対する行政認可による規制を潜脱する脱法的行為にあたり、それ自体学校教育法に違反する違法行為というべきものである。のみならず、被控訴人がした本件学生募集停止には、それ以外にも次のような違法が存する。」

同一〇行目「(一)」を「(1)」と、同一〇枚目裏七行目「(二)」を「(2)」と各訂正し、同一二枚目裏七行目から同一三枚目表一〇行目までの部分を次のとおり訂正する。

「(二) 被控訴人の損害賠償責任

控訴人は、前述のように、被控訴人の文書による公示と被控訴人大学文学部神学科主任田島教授の言葉を信じ、神学科三年への編入試験に合格すれば、神学科の課程のみならずこれと一貫教育の関係にある修士課程のそれをも履修することができ、かつ、日本キリスト教団の補教師検定につき有利な受験資格をも得ることができるものと期待して、その資格があるにもかかわらずあえて直接修士課程の入学試験を受ける道を選ばず、神学科三年への編入学試験を受けてこれに合格し、同科に編入学したところ、被控訴人の違法な本件学生募集停止によつて右修士課程への進学の道を閉され、結局控訴人の期待した被控訴人大学における伝道または神学研究のための完全な教育を受けることができなくなつてしまつたのである。もし被控訴人がこのような違法な募集停止を行わなければ、控訴人が修士課程の入学試験に合格して同課程の履修を終えたであろうことはほとんど確実であるから、控訴人は被控訴人の故意または重大な過失に基づく違法な行為によつて、右の期待的利益を侵害されたものといわなければならない。そして、控訴人の右期待は専ら被控訴人が前記のような公示をなし、かつ、一〇余年にわたつてこれを実行してきたことおよび田島教授の言明を信頼したことによるものであり、更に公共的責務を有する大学としての被控訴人の地位と性質にかんがみるときは、控訴人が右のような信頼と期待を抱いたことは至極当然であつて、控訴人のかかる期待利益は、被控訴人の違法な行為による侵害から法律上保護されるべき利益ということを妨げず、他方被控訴人は、本件学生募集停止により神学科学生の右のような期待的利益を侵害することを予期し、または予期しうべかりしものであるから、控訴人が右期待利益を喪失したことにより精神上の苦痛を蒙つたことに対し、その賠償をなすべき不法行為法上の責任を免れることができない。」

右の次に、行を代えて次のとおり附加する。

「2 控訴人は、第二次的損害賠償請求の請求原因として、上記1の主張と選択的に次の主張をする。

すなわち、被控訴人は、前記のように、被控訴人の文学部神学科三年への編入学につき控訴人との間に就学契約を締結するのに先立ち、伝道または神学研究を希望する者に対しては神学科四年と修士課程二年の六年間の一貫教育のためにカリキユラムが組まれており、その全課程を履修することによつてはじめて伝道のための基礎教育が完成される旨を公示し、神学科田島教授もまた、控訴人に対して、直ちに修士課程に進学するよりは学部神学科三年に編入学して同科における教育を受けることが適当である旨言明し、控訴人はこれらの公示や言明を信頼して上記就学契約を締結したのである。したがつて、仮に被控訴人が控訴人に対し入学試験に合格することを条件として修士課程の教育を施すこと自体は右就学契約の内容に含まれないとしても、被控訴人は、被控訴人の上記言明に依拠し、これを信頼して被控訴人との間の就学契約関係に入つた控訴人に対し、正当な理由なくして右の信頼利益を害しないようにすべき信義則上の義務を負うものというべきところ、被控訴人は前記のように正当な理由なくして本件学生募集を行い、控訴人の右信頼利益を害したのであるから、これによつて控訴人が蒙つた精神上の苦痛に対し、前記1と同様の損害賠償の責任を免れない。これを詳述すれば、次のとおりである。

(一)  一般に契約法を支配する信義則は、契約内容をなす権利の行使や義務の履行について妥当するのみならず、広く契約に関連する事態についても及ぶものであり、例えば契約内容そのものとなつていない事項に関しても、当事者間に信義則上一定の拘束的関係を認め、その違反に対して損害賠償の責任を課したり、また契約締結にいたらなかつた場合についても信義則上同様の関係や効果を肯定すべきものとされる場合が存在する(しばしば契約締結上の過失として論ぜられるところである。)。このような信義則適用の一例として、契約の締結にあたつて当事者の一方が他方に対し契約以外の別の利益を享受しうべき旨をもつて契約締結を勧奨し、他方がこれを信頼して契約の締結をした場合において、かかる信頼が契約締結の重要な動機、縁由をなしており、右の享受しうるとされた利益の供与が勧奨者の支配しうる事項に属し、かつ、相手方がかかる利益享受を確実であると信じたことにつき善意無過失であつたときは、たとえその利益供与自体は契約の固有内容をなすものでなくても、なお右勧奨者は自己のした右言明につき拘束され、正当の理由なくして右利益の供与を拒否して相手方の信頼を裏切り、単なる契約関係からの離脱のみによつては補填されえない損害をこれに与えたような場合には、信義則上勧奨者は相手方に対して右損害を賠償すべき責任を免れないものと解すべきである。

(二)  これを本件についていえば、控訴人は、前述のように、入学試験に合格すれば修士課程の教育を受けられる旨の被控訴人の言明等を信頼し、これを重要な動機、縁由として被控訴人と学部神学科編入学に関する就学契約を締結したものであり、被控訴人が公共的性質を有する教育機関であるという地位と性質に照らせば、控訴人が被控訴人による上記将来の利益供与が確実であると信じたことについてなんらの過失はなかつた。そして修士課程の入学試験を実施して合格者に修士課程の教育を施すかどうかは、全く被控訴人が独自に決定しうる事項である。しかるに被控訴人は、正当の理由なくして修士課程の学生募集を停止し、控訴人をして右修士課程の教育を受ける機会を喪失せしめたのである。そして控訴人がこれによつて受けた損害は、学部神学科への就学契約の解除によつて償うことができないものであることは明らかであるから、被控訴人に対し上記損害賠償の義務を免れない。」

二、被控訴人の主張

1  第一次請求について

原判決一七枚目表一行目「修業者に」から同二行目「課程である。」までを「神学科自体は四年間の履修をもつて完結されるそれ自体独立の課程として構成され、修業者に対しては学士の称号が授与されるのであり、他方修士課程はこれとは別個に二年の課程として構成され、神学科修業者のみならず他の出身者に対しても広く門戸を開放し、入学試験を実施して入学許可を与えているのであつて、両者はそれぞれ別個のものであり、控訴人のいうように六年間の一貫教育として一体的性格を有するものではありえない。このことは、控訴人の引用する他の諸大学においても同様である。」と訂正し、同一八枚目表九行目「こともない。」の次に、一九枚目裏三行目「修士課程の入学資格は」から同二〇枚目表五行目「いるのである。」までの部分を同所から削除の上この部分に挿入し、同裏末行目「ないのである。」の次に「また、神学科学部課程の学生の中には日本キリスト教団に所属する牧師志望者ばかりでなく、パブテスト、ホーリネスその他日本キリスト教団以外の牧師志望者も居り、これらの者にとつては日本キリスト教団補教師検定試験は無関係である。」を、同一九枚目裏三行目「ものではない。」の次に「そして、昭和四六年度編入学生である控訴人に渡してある授業要覧(乙第一六号証の三)には、神学科A、Bの二コースがある旨の記載はない。また、青山学院大学文学部神学科案内は入学受験者に個々に配布しておらず、非公式に、書店で販売されていたものであり、その記載も「日本キリスト教団の認可神学校であるがいろいろな教派の学生が学んでおり、超教派的な教育が施されているが、学生は、原則として修士課程まで六年間の課程を修めることが望まれる。」とあるのにとどまり、伝道者になるには本件修士課程の履修を必要とする旨または修士課程終了により日本キリスト教団補教師検定資格を得る旨の記載はない。以上いずれにしても、被控訴人が公にした文書中には、控訴人の主張するように伝道または神学研究の志望者に対し、神学科四年と修士課程二年の一貫したカリキユラムが組まれ、その全部を履修することが必要である旨を言明したようなものは全く存在しないのである。また、神学科主任田島教授も、控訴人に対して控訴人の主張するような趣旨の言明をしたことはなく、控訴人の学力上単にいきなり修士課程に入学するよりは、神学科三年への編入学試験を受けた方が得策である旨を進路指導として個人的に助言したものにすぎない。」を、同二〇枚目表六行目「(5)は争う。」の次に「伝道者養成または神学研究のための教育が神学科および修士課程をあわせて六年の一貫教育によつてはじめて完成される一体的なものではなく、両者はそれぞれ別個独立の課程をなすものであること、被控訴人が修士課程の履修をも必要とする旨を公示したこともないことは前記のとおりであるから、控訴人の主張するように修士課程進学に関する約定が本件就学契約の一内容としてこれに含まれると認めるべき余地はなく、仮に被控訴人が修士課程への進学を望ましいものとこれを勧奨したとしても、勧奨はあくまでも勧奨であつてそれが当然に契約内容となつたり、特約を成立せしめたりすることはありえない。」を各附加する。

2  第二次的請求について

原判決二二枚目表九行目の次に行を代えて、「(1)同1(一)は争う。控訴人のいう教育役務継続提供義務なるものは、公法上の要請であるにすぎず、私法上における法的義務とはいえないものである。また、学部、学科の廃止と学生募集停止とは明らかに異なる制度であり、行政官庁の認可なくして学部、学科の廃止を行うことができないとしても、学生募集の停止は学校法人の合理的裁量によりこれを決定しうるところで、ただ監督庁に対する届出を義務づけられているにすぎない。控訴人の議論には、観念の混同があるというべきである。」を挿入し、同九行目「(二)」を「(2)」と、「同2(一)」を「同1(一)(1)」と、同二三枚目裏一行目「(三)」を「(3)」と、同「同2、(二)」を「同1(一)(2)」と、同八行目「(1)」を「(イ)」と、同二四枚目表四行目「(2)」を「(ロ)」と、同裏一行目「(3)」を「(ハ)」と、二六枚目裏九行目「(四)」を「(4)」と、同「同3」を「同1(二)」と各訂正し、同二七枚目裏一〇行目「ものだからである。」の次に行を代えて次のとおり附加する。

「(二) 請求原因二、2は争う。被控訴人は控訴人の主張するような公示ないし言明をしたことはないから、控訴人の主張は前提を欠くというべきであるが、法律上においても、控訴人の主張するような信義則上の信頼利益保障義務ないしは正当な理由なくして右信頼利益を害したことによる損害賠償責任の成立を肯定することはできない。これを詳説すると、

(1)  控訴人の主張する信義則違反による損害賠償責任なるものは、契約が成立せず、または瑕疵ある状態で成立した場合において、その準備段階における一方当事者の言動に依拠して相手方が瑕疵なき契約の成立を期待したことに対し、かかる契約の成立に代わるものとして信頼利益の喪失による損害を補填させることが公平の原則に合致するところから、これを肯定すべきものとする議論、すなわちいわゆる契約締結上の過失による責任の問題として説かれているところを援用し、これに依拠するもののようであり、被控訴人も、一般論としては、右のような場合にこれを認める余地があることをあえて否定するものではない。しかし、右のような場合を超えて、契約成立後の当事者の関係についまで、契約の履行に関する解釈指針としてのほかに、契約内容とは別個独立の義務ないしは責任としてこれを肯定すべきものとするところまで信義則を拡大することはとうてい許されるべきことでなく、控訴人の主張は、ひつきよう現行法上の根拠を有しない独自の法的見解というほかはない。

(2)  本件においては、被控訴人の信義則違反と目すべき事実は存在しない。被控訴人がした文書上の勧奨なるものは、単に神学科学生は同科の課程修業後さらに修士課程に進学して二年間の履修をするのが望ましいということを一般的に述べたにとどまり、神学科と修士課程の両者を履修することを要求したり、ないしはこれを保証したというような性質のものではなく、また特に伝道者や神学研究志望者に対してそれとの関連で入学を勧奨したり、日本基監教団補教師検定試験と関連させて勧奨したものでもない。しかも右記述は、受験者一般を対象とする文書中の記載にすぎず、特に控訴人個人に対して向けられたものではないのである。なお、神学科主任田島教授の勧告は、前記のように単に同教授の控訴人に対する個人的な助言としてされたものにすぎず、しかもその中には、六年間の一貫したカリキユラムが採用されているとか、修士課程までの履修が保証されているとかの趣旨は、毫も含まれていない。それ故、このような状況の下における控訴人の神学科第三学年への編入学は、ひつきよう控訴人の独自の判断に基づくものというほかはなく、その危険は専ら決定者自身において負担すべきものであり、被控訴人が信義則上控訴人の期待に沿うように行動すべき拘束を受けるとされるいわれは全くないのである。

なお、被控訴人の神学科卒業者は、他の同種大学院修士課程に進学してその欲する修士課程教育を受けることができるのであり、現に被控訴人は、本件募集停止に伴う教育上の配慮に基づく善後措置として、神学科教授をして控訴人ら修士課程進学希望の神学科卒業予定者らに対して個別的に他の同種の大学院修士課程への進学を指導させた結果、控訴人を除く他の者はいずれも他の同種大学院修士課程に進学し、ひとり控訴人のみがこれに従わなかつたものであることを付言する。」

当審の証拠として、<省略>

理由

一被控訴人の本案前の主張についての当裁判所の判断もまた原判決理由一の記載と同一であるから、これをここに引用する。

二第一次的請求について

1  控訴人の第一次的請求は、要するに、控訴人が被控訴人大学の文学部神学科三年に編入学するにあたり、控訴人が右神学科の課程の履修を終えたときは、入学試験に合格することを条件として被控訴人大学の大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程の履修をさせる旨の約定がなされていたところ、被控訴人は控訴人が右神学科課程を卒業した昭和四八年以降右修士課程の入学試験を実施しないから、これを実施する義務があることの確認を求めるというのであり、控訴人が昭和四五年三月東京大学法学部政治学科を卒業し、昭和四六年四月被控訴人の大学の文学部神学科三年に編入学して学部後期専門課程につき所定の履修を終え、昭和四八年三月卒業したこと、被控訴人が昭和四七年一一月二一日の理事会において昭和四八年度から神学科及び修士課程の学生募集を停止する旨決定し、その後所定の手続を経たとして昭和四八年度以降右各学生募集を停止し、入学試験を実施していないことは、いずれも当事者間に争いのないところである。

2  被控訴人は、控訴人が神学科三年に編入学する際に控訴人の主張するような約定がなされたことを争い、まず第一に、一般に大学の学部と大学院とは制度上明確に区別され、学部課程と大学院課程とはそれぞれ別個独立のそれ自体完結した教育単位を構成しているのであつて、各入学希望者に対してはそれぞれ別個に入学試験を行い、その合格者との間にそれぞれ就学契約が締結されるが、各就学契約はいずれも当該課程の履修のみを目的とし、これを超えて他の課程における教育の授受に関する約定を含むことは制度上ありえないことであるとし、また、入学試験は、学生募集に対する申込とその受付とによつて始めて成立する契約関係に基づいて実施されるもので、右募集以前に入学試験実施義務なるものが成立する余地はないと主張する。

確かに、大学の学部と大学院とが制度上別個のものであり、そのそれぞれに入学するに際して締結される就学契約の固有内容がそれぞれの課程における教育の授受のみに関し、他のそれを含まないこと、また、入学試験そのものの具体的な実施義務は受験者と学校との間の試験に関する特別の契約に基づいて始めて生ずるものであることは、いずれも被控訴人の主張するとおりである。しかしながら、控訴人は、被控訴人のいうような正式のないしは狭義の学部就学契約の中に大学院修士課程への進学に関する約定が含まれていると主張しているのではなく、控訴人の主張するような特殊事情のもとにおいてなされる神学科入学における契約の中には、右のような正式のないしは狭義の就学契約ばかりでなく、修士課程進学に関する前記のような約定も含まれていると解すべきものであり、かかる約定がある以上、被控訴人は相手方に対して修士課程の入学試験を行い、これに合格した場合にその履修をさせる義務があると主張しているのである。それ故、被控訴人の上記主張のように、単に通常の場合における学部および大学院入学の際の各就学契約の固有内容や、入学試験契約の内容、性質を一般的に論ずるだけでは、控訴人の主張に対する十分な反論とはなりえないといわなければならない。

もつとも、被控訴人の主張の真意は、大学の学部と大学院とが学校教育法上別個独立の制度とされ、各課程がそれぞれまとまつた一個の教育課程として構成されるという建前がとられている以上、そのもとにおいて就学関係を設定する契約の締結にあたり、当面の目的である教育課程を超えて、控訴人のいうような他の教育課程の履修に関する権利義務を設定するような約定がなされることはありえないという意味で被控訴人主張の特約の存在を否認するものであると考えられる。そこでこの点について考えるのに、もし被控訴人のこの主張が、およそ学校教育法上このような特約の成立が不可能であるという趣旨であれば、学部と大学院とが学校教育制度上別個のものであるということからは、当然には右のような結論が導かれるものではないから、右主張はとうてい採用できないが、もし被控訴人の主張が、そうではなくて、右のような制度的建前とそのもとでなされる学校運営の実情に照らし、控訴人の主張するような特約が結ばれることは実際問題としてありえないという趣旨で言われているのだとすれば、それは相当の理由のある主張であると考える。けだし、被控訴人のいうように、大学と大学院とが前述のようにそれぞれ別個独立の制度であるという建前のもとで、それぞれの入学につき各別の入学試験が実施され、合格者との間に各別の就学契約が締結されるというのが一般の実情であるということに加えて、一般に学校はその公共的使命に照らして不特定多数の入学希望者に対して多く門戸を開放することが要請される存在であり、あらかじめ特定の者ないしは特定の範疇に属する者と特約を結んで入学ないしは進学に関する特別の権利義務を設定するようなことは、その性質上通常はなされないと考えられること、また、学校、なかんずく私立学校にあつては、学部学科の存廃や学生募集の決定のごとき学校運営の基本に関する事項は、原則として学校の設置者ないしはその管理運営権者の専決に委ねられるべき事柄であり、これに関して学校当局が第三者と契約を締結して、相手方にこれらの運営につき請求権を与えるような形でみずからの決定の自由に拘束を課するようなことは、たやすく想定できることではないからである。それ故、控訴人主張のごとき特約の成立を肯定しうるためには、その旨の明示の合意がある場合は別として、そうでないかぎり、前記の諸点にもかかわらずそこにかかる法的効果を生ぜしめるような内容をもつ暗黙の合意があつたとみるのが当事者の真意に合致し、また、それを認めないと著しく不合理な結果となるような特段の事由がなければならないというべきである。

3  ところで、右の点につき控訴人は、(1)被控訴人大学の学部神学科は、キリスト教の神学科研究および伝道者の養成を主とし、キリスト教教育関係事業に携わる者の養成もあわせ目的として設置されたものであるところ、このうち前者については、四年間の学部課程の教育のみでは基礎教育として不十分であり、更に大学院修士課程二年の課程の履修を必要とし、これを俟つてはじめてかかる基礎教育が完成されるものであることから、被控訴人大学においては、神学研究または伝道志望者のために神学科四年と修士課程二年を通ずる六年間の一貫教育を施すこととし、前者と後者の各カリキユラムにおいてもそれぞれ右の見地からする履修課目の配分と編成がなされていること、(2)そして神学科入学希望者に対しては、右の趣旨に従い、神学研究または伝道希望者におけるそのためのコースを選択し、かつ、その履修後更に修士課程二年の履修が必要である旨を予め公示していること、(3)したがつて右の目的で神学科に入学する者は、二年の修士課程を含む六年間の教育課程の履修を必要とするものと考え、かつ、当然そのような教育を受けられるものと信じて入学するものであること、以上の諸点に照らして控訴人主張のごとき特約の成立を肯定すべきであると主張している。そこで、進んで控訴人主張のごとき事由の有無およびこれらの事由が前記説示したところに照らして控訴人主張の特約の成立を認めざるをえないような特段の事由に当たるかどうかを検討する。

(一)  キリスト伝道者養成のための神学教育については、一般論として控訴人の主張するような特殊性が存すること、被控訴人がいわゆるキリスト教主義に基づく教育を行う施設として明治以来古い伝統を有し、昭和二四年私立学校の制定に伴い、同法による学校法人として被控訴人大学を設置し、文学部にキリスト教学科を置き、昭和三〇年に大学院修士課程を、次いで昭和三四年に、大学院博士課程を設け、昭和三六年四月キリスト教学科を神学科と改称し、これに伴い、教育機関としての神学科の目的として伝道者の養成に重点を置きながら、キリスト教関係事業に携わる者の養成をもあわせ行うことを明確にするとともに、神学科に伝道および神学研究を志す者のためのAコースと、教育関係事業に携わる者のためのBコースの区別を設けたが、右コース区別は昭和四五年以降廃止されたこと、被控訴人大学の神学科および修士課程が昭和三七年度以降日本キリスト教団認可神学校に指定されたこと、同教団の補教師検定試験においては、修士課程の修了者と神学科のみの修了者との間に控訴人主張のような受験科目の相違があること、以上の事実は、当事者間に争いがない。

(二)  前記当事者間に争いがない事実と、<証拠>を総合すると、次のとおり認められる。

(1) 一般に大学において牧師などキリスト教伝道者となる者の養成を目的とする学科が置かれる場合においては、右の目的のための基礎教育を施すにつき、伝道者の職務内容、殊に教会における説教や信徒に対する精神的、倫理的指導等の点から、学部課程の履修のみでは不十分と考えられるものの、他方履修期間を延長することは学校教育上不可能であるため、別に大学院に修士課程を置き、学部課程では聖書の原書講読に必要なギリシヤ語、リブル語等の特殊語学や基礎的な専門知識の修得に主力を注ぎ、聖書神学に専門科目は修士課程で修得するような科目配分を行い、それぞれのカリキユラムが組まれており、このことは、日本キリスト教団の認可神学校である東京神学大学、関西学院大学、同志社大学および被控訴人大学に共通して認められるところである。

(2) これを被控訴人大学についてみると、被控訴人大学においては、前記のように昭和三〇年神学研究および伝道者養成のため大学院に聖書学専攻課程を設け、昭和三六年学部キリスト教学科を神学科に変更するとともに、神学科のカリキユラムを伝道および神学研究志望者養成のためにAコースと、キリスト教教育関係事業従事者養成のためのBコースとに分け、Aコースでは修士課程における履修と関連させて(1)で述べたような観点からする科目配分を行い、両者相俟つて上記目的のために望ましいと考えられる基礎教育が一応完了されるような編成が施された。このAコースとBコースの区分は、その後昭和四五年にいたり、選択の幅を広くせよという学生の希望に沿つて廃止されたが、それは従来各コースにおいて必修科目とされていたものが選択科目に変更されただけのことで、その基本構想自体には変りがなく、伝道者、神学研究志望者に対しては、従来Aコースで必須とされていた科目を選択し、更にできれば修士課程に進学するように指導が行われていた。

(3) しかしながら、学部および修士課程を通じて六年間の履修の必要性とそれを前提とする上述のようなカリキユラム編成上の特殊性にもかかわらず、制度的にはこれによつて伝道者および神学研究者養成のための教育として神学科における教育と修士課程におけるそれとが一体化され、神学科Aコース修了者は当然に修士課程に進学することができ、また、修士課程には原則としてこれらの者のみが進学を許されるというわけではなく、Aコース修了者が他大学の同種の大学院修士課程に進学し、またBコース修了者や他大学の出身者が被控訴人大学の修士課程に進学することももとより可能であり、その間に入学資格等の制度上の区別が設けられることはなかつた。また、AコースとBコースが区分されていた当時においても、その区別は厳格なものではなく、Aコースに属する者がBコースの科目を選ぶことも自由であり、また、AコースからBコースに変更することも許され、所定の単位を取得すれば神学科修了者としての資格を取得するものとされていた。

(4) 以上を要するに、伝道者または神学研究者養成のための基礎教育としては六年間の履修が必要と考えられていたものの、神学科と修士課程との科目配分にせよ、神学科におけるAB両コースの区分にせよ、伝道または神学研究志望者にとつては神学科のAコースの科目と修士課程のそれとをあわせ履修することが最も適切かつ有利であり、またそれが望ましく、現にそのような指導がなされていたものの、制度上それが常に必要であるとして要求されていたわけではなく、また、一般的に修士課程に進学しないかぎり、神学科課程の履修のみではその意義ないし価値が全くないか、または極めて乏しいというものでもなかつた。

右のように認められ、これを動かすに足りる証拠はない。

(三)  前記当事者間に争いがない事実と、<証拠>をあわせると、次のとおり認められる。

被控訴人の神学科および修士課程は、ともに日本キリスト教団の認可神学校であり、同教団の補教師検定規則によると、補教師(正教師のできる聖礼典の執行権限はないが、それ以外は正教師と同じ職掌権限を有し、正教師を補佐する任にあたる。)検定試験における試験科目は、認可神学校以外の者については三年にわたり合計一八科目の試験が課せられているのに対し、学部神学科修了者については(1)同教団の教憲、教規その他規則および法規、(2)説教、(3)旧約聖書神学、(4)新約聖書神学、(5)旧約聖書釈義、(6)新約聖書釈義のみが課せられ、更に修士課程修了者に対しては、右のうち(1)と(2)のみが課せられている。そして、一九六四年から一九七三年までの間に補教師検定試験に合格した総数五五六名のうち、認可神学校の修士課程修了者は三一八名に達しているのに対し、学部卒業者は三六名にすぎず、それも長年キリスト教の教育関係の職務に従事していた者が多く、学部卒業後間もなく合格することは困難である。これらの点からすると、日本キリスト教団に属し伝道者を志望する者にとり、補教師検定試験に合格するためには、学部神学科修了後更に修士課程に進学し、同課程を修了するのが最も有利な方法であると考えられる。もつとも、修士課程履修は前述のように右試験の受験資格要件ではなく、また、認可神学校の修士課程であるかぎり、被控訴人大学のそれと他大学のそれとの間に利点上の相違はない。

右のように認められ、これを動かすに足りる証拠はない。

(四)  <証拠>を総合すると、次のとおり認められる。

(1) 一九七〇年(昭和四五年)度青山学院大学文学部神学科案内(甲第一号証)には「学部は将来教会における直接の伝道あるいは神学の研究を志望する者と、キリスト教教育関係の事業を志望するもののために備えられている。前者は原則として修士課程まで六年間の課程を履修し、日本キリスト教団に属する者は補教師検定資格をうる。」と記載され、一九六三年(昭和三八年)度神学科のしおり(甲第一五号証)、神学科通信第八号(昭和四〇年一二月発行。甲第一一号証)、同第九号(同年同月発行、甲第一二号証)にも同旨の記載があり、授業要覧(昭和四四年度、甲第一〇号証の一、二、乙第一六号証の一と同一)の神学科の履修科目説明欄に「○印は主として伝道及び神学研究を志望する者(大学院を含めて六年コース)の必修科目」と記載されている(ただし、ABコース廃止後の授業要覧(昭和四六年度、控訴人が編入学した年度のもの。乙第一六号証の三)には、前記各記載と同趣旨の記載は存在しない。)。もつとも、これらの公刊物のうち神学科案内、神学科のしおり、神学通信は、いずれも授業要覧とは異なり、被控訴人大学の名をもつて公刊されるものについてとられている正規の決裁、刊行手続を経て出されるものではないが、なおそれぞれ文学部教授会、神学科分科会の議決を経て神学科主任の責任において発行されているものであり、純然たる私的なものではなく、被控訴人大学の意向に沿い、これを表明した文書たる性格をもつものと考えられるものである。

(2) 控訴人は、伝道者を志望して被控訴人大学の修士課程に入学しようと考えていたが、前記(1)の各公刊物をみて修士課程に直接入学した場合履修に支障がないかに疑問を抱き、願書を提出する前に、学部神学科主任田島信之教授にその研究室で面接し、右の点についての進学相談をしたところ、田島教授は右神学科のしおりを控訴人に交付して学部神学科と本件修士課程との関係を説明したうえ、修士課程に直接入学するのはその履修上困難を伴なうので学部神学科三年に編入学し、その後期専門課程で基礎知識を身につけてから修士課程に進学すべきことをすすめた。この田島教授の勧告は、同教授が純然たる個人的立場で述べた意見ではなく、神学科主任としての立場において、外部からの進学相談に対する回答として述べられたものであり、またその内容も同教授の個人的見解ではなく、神学科全体、ひいては被控訴人大学の見解、意向に沿い、これを反映したものであつた。

右のように認められ、これを動かすに足りる証拠はない。

4  そこで上に認定した諸事実に基づいて控訴人主張の特約の成立を認めるべきかどうかを考えるのに、まず、(1)被控訴人は、キリスト教の神学研究者および伝道養成のための大学教育を目的として文学部に神学科を、大学院に聖書神学専攻修士課程を設け、日本キリスト教団の認可神学校となり、神学研究者および伝道者養成教育を実施してきたこと、(2)この教育のためには、神学科四年の課程の履修のみでは十分でなく、二年の修士課程の履修が必要であり、そのために両者を通じて六年の課程の履修を経て一応基礎教育が完了されるとの見地から両者間の課目配分を行い、それぞれのカリキユラムを編成したこと、(3)そしてそれに応じて聖書神学研究または伝道者を志望する者に対しては、神学科および修士課程において右のような教育が与えられることを公示して入学希望者を勧誘し、また、神学科入学者に対しては同科における聖書神学研究または伝道者養成のための必須科目を選択し、更に修士課程に進学するよう指導していたこと等の諸点に徴すれば、被控訴人は、伝道者を志望して神学科に入学した者が更に修士課程に進学することを強く望み、神学科と修士課程の両者における所要の教育が用意されている旨をもつて学生を勧誘し、他方日本キリスト教団に属する者で右勧誘に応じて神学科に入学する伝道者志望者は、修士課程の履修が補教師の資格を取得するうえで有利であると考え、かつ、被控訴人大学において神学科および修士課程を通じて被控訴人のいうような教育を受けられるものと信じ、かつ、期待して入学するものと考えられるから、これらの伝道者志望の神学科入学者と被控訴人との間の就学契約締結に際しては、右契約自体が直接目的とし、内容とするところは神学科自体における教育の授受に関するものであつても、そこには両者間に当然将来修士課程の教育の授受がなされるであろうという期待と了解が存在していたものと認めるに難くはない。特に控訴人の場合には、神学科三年に編入学するについての前記経緯に照らしても、その期待、信頼にはいつそう強いものがあつたということができる。しかしながら、他方前述のように、神学科と修士課程とは制度上直結され、一体化されているものではなく、それぞれはいちおう別個独立の教育課程をなし、神学科入学者は修士課程をも履修しなければ同科の課程履修のみでは無意味であるというわけではなく、また、神学科入学者につき神学研究または伝道者志望者とそれ以外の者とを当初から区分し、前者については当然修士課程に進学するものとしての教育の授受を行うということはなく、修士課程へ進学するかどうかは学部課程の履修が終るまでにそれぞれの学生が任意に決定するところで、右進学希望者についてのみ別に学内の選抜試験を経て改めて修士課程についての就学契約が締結されるものであることに鑑みるときは、前記のような期待ないし了解は、あくまでも将来における修士課程教育授受についての期待ないしは抽象的、一般的な了解として、神学科入学ないしはこれに関する契約締結についての重要な動機、縁由の領域にとどまるものというべく、これを超えて、前記2の末段で述べたような意味で、被控訴人が神学科入学者に対して入学試験合格を条件として修士課程に進学させ、これに同課程の教育を提出すべき債務を負担し、相手方がこれに対応する請求権を取得するという債権債務関係を確定的に発生せしめるような、修士課程進学に関する一種の予約ないしはこれに準ずべき具体的、特定的な約定がすでにそこに成立したものと解することは困難であり、また、相当でもないといわなければならない。そしてこの結論は、控訴人についても同様であり、控訴人の場合にかぎつてこれを二、三にすべき理由はない。

5  右のとおりであるから、他に控訴人主張の特約成立を肯認すべき特段の事情について主張、立証のない本件においては、右特約の成立を前提とする控訴人の第一次的請求は、結局その立証がないものとして棄却を免れない。

三第二次的請求(その一)について

1  控訴人が原審以来第二次的請求として主張するところは、被控訴人による本件学生募集停止は、控訴人に対する関係において不法行為を構成する違法な権利侵害行為であるから、これによつて控訴人がこうむつた精神上の苦痛に対する慰藉料として、金一〇〇万円を支払うべき義務があるというのであり、控訴人は、被控訴人の右学生募集停止行為が違法である理由につき、(1)それが公共的使命と責務を有する教育施設としての学校が一般的に負担している教育役務の継続的提供という法的義務に違反するものであること、また、学校教育法上大学の学部学科の廃止が行政官庁の認可事項とされているのを潜脱する目的でなされたものである点でも違法性を有すること、(2)被控訴人大学の学則で定める手続を履践しないでなされた点において手続上の違法性を有すること、(3)被控訴人大学における教師や学生の思想、信仰の自由を侵犯する点において実質上の違法性を有することを挙げ、更に、控訴人は被控訴人の右違法な行為により、被控訴人大学の修士課程に進学することを阻まれ、同課程における履修に対して有する期待利益を侵害され、精神上大きな苦痛をこうむつたが、かかる期待利益は法的に保護されるべき利益というべきものであるから、被控訴人の本件学生募集停止は、違法な権利侵害行為として不法行為を構成する、と主張している。要するに、控訴人の右請求における主張は、被控訴人の本件学生募集停止は違法であるから、その結果控訴人が被控訴人大学院の修士課程に進学する機会を失つたことに対して損害賠償の責任を負うというのである。

2  思うに、被侵害利益がもともとその利益主体において侵害者の行為とは無関係に独立して享受することのできるものであり、かつ、法がかかる利益享受を他からの正当化しえない侵害から保護、保障されるべきものとしている場合と異なり、自己独自では享受することができず、他人の給付行為によつてのみ享受しうる利益については、全く無関係な第三者による侵害の場合は別として、右給付行為の主体との関係においてそれが法的に保護されるべき利益といいうるためには、当該給付行為者がその者に対する関係において当該給付行為をすべきことがなんらかの意味において法的に要求されていること(必ずしも相手方がこれに対応する給付請求権を有しなくても)が必要であり、右給付行為をすべきであるのにこれをしないことがかかる義務違反として違法性を帯びるものと評価される場合においてのみ、給付行為期待者の法的に保護されるべき利益を侵害する行為として不法行為を成立せしめるが、そうでない場合には、たとえ右不作為がそれ以外の理由によつて他の関係で違法と評価されるものであつても、これによる期待利益の侵害をもつて違法な権利侵害とすることはできないものと解すべきである。

本件において控訴人が被侵害利益として主張するところは、控訴人が被控訴人の大学院聖書神学専攻修士課程の入学試験に合格したうえ同課程における履修をするという期待利益であり、これは専ら被控訴人の給付行為によつてのみ実現されうるものであるから、被控訴人による右給付拒否としての本件学生募集停止を違法な権利侵害行為であるとなしうるためには、被控訴人に対する関係においてかかる給付行為を法的に義務づけられていることが必要であるといわなければならない。しかるに、控訴人が本件学生募集停止の違法理由として掲げる前記事由は、いずれも右の意味での違法性とは関係がないか、またはこれを理由づけるに足りない事由の主張にすぎないものである。すなわち、まず前記(1)の教育役務提供義務違反ないしは学校教育法四条違反の主張についていえば、確かに学校は、国公立のそれであると私立学校であるとを問わず、広く国民に対し、教育という国民にとつて必要不可欠な精神的、文化的役務を提供する施設として高度の公共的使命と責務を有することは控訴人の説くとおりであるけれども、利用を希望する国民ないしは地域住民(の子弟)で、一定の条件を具備する者に対してはあまねくその利用を許すべき義務を荷う公の施設として設けられた国公立の学校の場合はともかくとして、私立学校は、前記のような学校のもつ特殊性から法律が一定の規制を施している場合にこれによつて拘束されるほかは、原則として他からの制肘を受けず、自主的かつ自律的にみずからの教育運営を行うことができるのであり、そこに私立学校の特殊性が存するのである。私立学校がいかなる範囲、規模において学生、生徒を募集するか、入学の条件をどのように定めるかは、法により特段の制限か課せられないかぎり、その自由に決定しうるところであり、特定年度において学生、生徒を募集するかどうかを決定することもまた、これと同様である。もちろんいつたん学校に入学し、これと教育の授受に関する法律関係に入つた者に対しては、学校は継続的教育役務提供の義務を負うが、これは契約という法律上別個の原因に基づくものであり、また、学校の定める条件を具体的に充足して入学を願い出た者に対し故なく入学を拒否したり、その他不当な差別待遇をしたような場合には、それが違法とされてこれに対する法的責任を追求されることもありえようが、これは別個の法理に基づくものであつて、このような特別の場合を離れて、一般的に私立学校が前記のような公共的使命と責務を有する教育施設であるということから、直接かつ当然に入学希望者に対して入学の機会を与えるべき法的義務を負担するとなすべき法的根拠はこれを見出すことができない。学校教育法は、学校のもつ公共的性格に鑑みてその組織、運営につき種々の法的規制を施し、同法四条は学校の設置のみならずその廃止をも監督庁の認可を要する事項と定めているが、同条は行政監督の方法によつて学校運営につき一定の拘束を課そうとしたにとどまり、これによつて個々の利用希望者に対し利用の機会を与えるべき義務を学校に課したものと解することはできないし、その他学校教育法上このような義務の存在を肯定させるような規定はどこにもみあたらないのである。それ故、上記(1)の一般的な教育役務提供義務違反や学校教育法四条違反の主張は、被控訴人の本件学生募集停止をさきに述べた意味で控訴人に対する関係において違法な行為であるとするに十分な理由とはなりうるものではない。次に、前記(2)の手続上の違法についていえば、それは単に組織体としての被控訴人の内部的意思決定につき遵守すべきものとされている手続規則に違反して意思決定がされたというだけのことであつて、それが被控訴人の適法な意思決定として有効に成立しうるかどうか、また、右違反行為をした者につきいかなる内部的責任が生ずるか等の問題を生ぜしめることは格別、そのために当然に本件学生募集停止を控訴人に対する関係で違法ならしめるものではないし、また、前記(3)の実質的違法の主張も、そのために被控訴人に不法行為責任が生ずるとしても、それは右行為によつて自己の思想、信仰の自由を害された教授や学生に対する関係においてのみであり、被控訴人の上記期待利益の侵害に対して不法行為上の責任を生ぜしめるかどうかとはなんら直接の関連性をもつものではないというべきである。そして以上のほかには、本件学生募集停止を控訴人に対する関係において不法行為とすべき理由につき、控訴人はなんら主張するところがない(もつとも、控訴人は後述のように当審において被控訴人が控訴人に対し信義則上の作為義務を負担し、これに違反する点において本件学生募集停止が違法である旨主張しているが、この主張はむしろ次に検討する当審における追加的請求の請求原因に関する主張とみるべきものであるから、ここではこれに触れる要をみない。)。

3  右のとおりであつて、控訴人の第二次的請求原因としての上記不法行為の主張は、結局主張自体法律上の理由がないといわざるをえないから、右請求は、その余の争点の判断に入るまでもなく、失当として棄却を免れない。

四第二次的請求(その二)について

そこで最後に、控訴人が第二次的請求の選択的請求原因として当審において新たに追加した契約上の信義則違反を理由とする損害賠償請求の当否を判断する(控訴人は選択的請求原因の追加と主張するが、後述のように、両者は損害賠償の内容、範囲を同じくしないのでむしろ予備的請求原因の追加と解するのが相当である。)。

1  控訴人の右主張は、要するに、契約の締結にあたり、一方が、契約を締結すれば契約内容をなす給付以外の他の利益をも享受しうる旨をもつて右契約の締結を勧奨し、他方がその勧奨を信じ、かつ、これが重要な動機、縁由となつて契約が締結された場合において、右の利益供与が勧奨者の支配しうる事項に属し、かつ、相手方がこれを信ずるにつき過失がないときは、たとえ右利益供与が契約の内容をなすものでなくても、勧奨者は信義則上右利益供与の言明に拘束され、正当な理由なくして右利益供与を拒否して相手方の信頼を裏切り、相手方がその結果右契約関係からの離脱によつては填補されえない損害をこうむつた場合には、相手方に対して右損害を賠償すべき責任があるとの理論を前提とし、本件において、被控訴人は、伝道者を希望して被控訴人大学文学部神学科に入学する者に対しては更に大学院修士課程における履修が用意されている旨をもつて入学を勧奨し、控訴人は、これにより、神学科の課程修業後入学試験に合格すれば当然に修士課程に進学して同課程の履修をすることができるものと信じ、これを重要な動機、縁由として神学科三年に編入学したものであり、控訴人には右のように信ずるにつきなんら過失がなかつたところ、被控訴人はなんら正当な理由なくして本件修士課程の学生募集を停止し、控訴人の信頼を裏切つて控訴人から修士課程における履修の機会を奪つたものであり、控訴人がこれによつて受けた損害は神学科への就学契約の解除によつては償うことのできないものであるから、被控訴人は控訴人に対し右損害を賠償すべき義務を免れない、というにある。

2 そこでまず控訴人が前提とする法律上の見解の当否を考えるのに、契約締結にあたり、一方が他方に対し、当該契約の内容となるべき給付以外に別個の利益を供与すべき旨をもつて勧奨し、他方がこれを信じたがために右契約締結を承諾した場合において、勧奨者が正当な理由なくして右利益供与を拒否し、相手方がこれにより不測の損害をこうむつたときに、右勧奨者に対してこれが賠償責任を肯定すべき場合が存しうることは、控訴人の主張するとおりであると考えられる。勧奨者が当初から右利益供与の意思がないのにこれがあるもののように装つた場合はまさに詐欺行為に該当し、不法行為として損害賠償責任を生ぜしめることは明らかであるが、そのような場合でなくても、勧奨行為の態様、その内容をなす利益供与の性質および内容、それが契約締結に対して有する意義のいかん等によつては、右の勧奨につき当事者間に成立した信頼関係に特段の法的保護を与え、勧奨者が不当に右の信頼関係を破棄して相手方に損害を与えたときは、その信頼を破つた者に対して損害を賠償すべき責任を認めるのを至当とすべき場合が存しうることを否定することができない。これを不法行為上の責任とみるか、契約法の原理をもつて律すべき特別の責任とみるかについては議論の存するところであるが、当裁判所は、それが契約そのものではないけれども、契約をめぐつて生じた当事者間の信頼関係の破壊によるものであり、契約法を支配する信義則上の適用としてこれによる損害賠償責任を肯定すべきものである点からみて、広い意味での契約法上の特別の義務ないし責任と解するのが相当であると考える。

しかしながら、契約の締結に際して行われる勧奨の性質、態様、内容および意義は、前記のように多岐多様にわたるから、いかなる場合に右勧奨に対する相手方の信頼に法的保護を与え、また、いかなる信頼違反に対し、かつ、いかなる損害に対して賠償責任を認めるべきかについては、更に慎重な吟味と検討を必要とする。けだし、一般に社会生活においては、他人が将来においてみずからのとるべき行動についてなす明示または黙示の言明に依拠し、このような行動がとられるであろうことに対する期待ないしは信頼のもとに自己の行動態度を決定するという相互的交渉過程を通じて営まれるという場面が多く、その場合社会生活の安定とその発展のためには右のような期待ないし信頼の確保が要請されるけれども、右の期待ないし信頼が裏切られたからといつて直ちにそこに法的責任の問題が生ずるわけのものではなく、むしろ多くの場合は、信頼を裏切つた者に対する道義的非難や交渉の途絶といつたような個人的ないしは社会的反作用の過程を通じてする処理に委ねられ、ただ社会生活の円満な営みを確保するうえにおいてかかる期待ないし信頼関係を特に強く維持し、保障する必要があると考えられる場合にのみ、これに法的保護を与え、不当に右信頼関係を破つた者に対して法的責任を課するというのが法の一般的態度であり、具体的場合につきかかる法的責任を肯定すべきかどうかは、ひとえに実定法規に則し、ないしはこれから導かれる原理、基準に従つてこれを決定すべきものであるからである。

ところで、右のように将来の行動についての相互の言明に依拠して成立する信頼関係が法的に保護される典型的な事例は契約の締結であるが、法は、かかる契約関係の成立についても一定の要件を定め、法的保護を与える範囲について一定の限界を画するという慎重な態度をとつていることに照らして考えるときは、契約にいたらない言明に基づいて成立する信頼関係についても、たやすく法的保護を認めるべきではなぐ、契約による関係とはいえないまでも、なおこれと同様の、ないしはこれに準ずるような性質および社会的意義を有する信頼関係についてのみ、これを肯定すべきものと解するのが相当である。そしてこの見地に立つて考えるときは、右の結論を肯定するためには、当該行動をとるべき旨の明示または黙示の言明が一般に相手方をして確実に右行動がとられるものとの信頼を抱かせることに向けられたものと認められるような内容および性質のもの、換言すればその意味において一種の約束ないしは保証と同視しうるようなものであること、相手方がこれを信頼したがために、さもなければしなかつたであろう行為をし、またはしたであろう行為を抑止する等特段の出捐、犠牲、負担等をしたこと、言明者も相手方が自己の言明を信頼してそのような行為に出ることを予想し、または予想することができたこと、言明者が正当な理由なくしてその言明に違背したこと、その結果相手方の前記出捐、犠牲、負担等が本来有すべかりし意義を実質的に失い、看過することのできない被害を相手方に生ぜしめたこと、以上のような要件を充足することが必要であると考える。そして更に、右の場合においてかかる信頼違背に対する法的責任として認めるべき損害賠償の範囲は、契約違反の場合とは異なり、原則として、言明内容をなす将来の行動によつて相手方が享受しうべかりし利益に相当する価値の填補ではなく、右の言明を信頼したがために相手方がこうむつた前記のような特別の被害に対する補填の範囲にこれをとどめるべきものと解するのが相当であると考える。けだし、この場合には相手方は当該行為の請求権を有するわけではないから、当事者間の公平をはかるうえからは、右の程度の責任を課することをもつて足りると考えられるからである。

右の一般的解釈を本件で問題とされている契約締結の勧奨の場合にあてはめると、契約の一方当事者が契約内容をなす給付以外に一定の実質的重要性を有する利益を確実に供与すべき旨をもつて契約締結を勧奨し、相手方がこれを信じ、これを重要な動機として右契約の締結に応じた場合には、右勧奨者は通常応諾者においてかかる信頼のもとに契約を締結するものであることを予想し、または予想しうべきものであるから、かかる信頼に基づいて契約を締結した相手方に対し、信義則上右利益供与の義務を負担するものというべく、正当な理由なくしてこれに違背し、右利益供与を拒否し、その結果相手方が契約締結につき当初有していた目的を十分に達することができず、相手方が右契約に関してすでにした負担行為がその本来有すべかりしはずの意義をかなりの程度において実質的に喪失するにいたり、社会観念上看過することのできない実質的損害をこうむつたものと認められる場合には、これが賠償をなすべき義務を負うものと解するのが相当である。

3  そこで、右の解釈に照らして本件をみると、

(一)  被控訴人がキリスト教の神学研究者および伝道者養成を重要な目的の一つとして大学の文学部に神学科を設け、更に大学院に聖書神学専攻修士課程を設け、日本キリスト教団の認可学校となり、神学研究者および伝道者養成のための教育を行つてきたこと、右教育のためには神学科四年の課程の履修のみでは不十分であり、更に二年の修士課程の履修が必要であるため、両者を通じて六年の課程により基礎教育を完成させるという見地から両者間の科目配分を行い、それぞれのカリキユラムを編成したこと、したがつて神学科に入学した神学研究ないし伝道志望者に対しては更に修士課程に進むように指導するとともに、一般に神学研究または伝道に関心のある者に対しては、これに関する教育のために前記のような神学科四年と修士課程二年の教育が用意されている旨を記載した文献を配布する等して神学科への入学を勧奨していること、これに応じて神学科に入学する者も、同科における履修のほか更に入学試験に合格すれば修士課程の履修をすることができ、またそのうち日本キリスト教団に属する者は、右課程を終えれば同教団の補教師検定試験についても有利な取扱いが受けられるものと信じ、かつ、期待して入学するものと考えられること、以上はいずれもさきに認定、判断したとおりである。そしてこれらの事実に加えて、被控訴人が、大学という公共的性格を有する教育施設として、一般にその教育役務の提供につき有する社会的責務を誠実に遂行することが期待され、かつ、信頼される存在であり、したがつてその公約する教育役務の全部または一部の提供をたやすく廃止、変更するというがごときは通常予想されないところであり、被控訴人自身本件学生募集停止の決定にいたるまではそのような意向を抱いたことも、これを表明したこともなかつたこと、前記勧奨もこのような背景のもとになされたものであること等の事情をあわせ考えると、被控訴人は、神学研究または伝道を希望する者に対し、神学科における履修に加えて、その修業後更に入学試験に合格すれば修士課程での教育が確実に与えられることを保証するような明示または黙示の言明をもつて神学科入学を勧奨したものであり、他方これら神学研究または伝道志望者は、被控訴人の右言明に依拠し、神学科の課程履修後修士課程における履修の途が与えられるものと信じ、これを重要な動機として入学するものであると認めるのが相当であり、また、このことは被控訴人においても当然に予想し、または予想すべかりしものであつたと認めるべきである。殊に控訴人の場合についていえば、控訴人は東京大学法学部政治学科卒業後伝道者を志し、直接被控訴人の修士課程に進学しようと考えたが、神学科主任田島教授との進学相談の際、同教授から神学科の履修内容やこれと修士課程との関係を説明され、いきなり修士課程に進むよりは神学科三年に編入学して後期課程における所要科目の履修をした方が適当である旨勧告された結果、同科三年に編入学したものであることはさきに認定したとおりであるから、控訴人の場合には特に上記認定、判断を妥当とすべき強い理由があるということができる。被控訴人は、神学科における教育と修士課程におけるそれとの関連について上記の趣旨を特に明らかにした記載のある前掲神学科案内、神学科のしおり、神学科通信等は、神学科の教授らの私的言明であつて被控訴人とは関わりがないものであり、また田島教授の控訴人に対する説明、勧告も同教授の個人的助言にすぎないから、これらに依拠して被控訴人が上記内容の勧奨、言明をしたものと認めるべきではないというが、これらが純然たる個人的言明ではなく、被控訴人の教育運営上の補助機関である文学部教授会ないし神学科分科会や神学科主任教授らがその立場、資格においてした言明であり、しかもその内容においても被控訴人の方針、意向に沿うものであることはさきに認定したとおりであり、被控訴人がこれを禁止した事跡も窺われないのであるから、これらを一根拠として被控訴人による上記内容の勧奨の事実を認定するのにはなんら妨げはなく、被控訴人の右主張は理由がない。そうすると、被控訴人は、右勧奨により、その言明を信じて被控訴人の神学科三年に編入学した控訴人に対し、信義則上正当な理由なくしてその信頼に違背するようなことをしてはならない義務を負担するにいたつたものといわなければならない。

(二)  次に、被控訴人の本件学生募集停止が控訴人に対する関係において正当な理由のない言明違背にあたるかどうかを検討するのに、被控訴人は、右学生募集停止の理由として、(1)近年神学科および修士課程に入学を希望する者の数が著しく少なく、合格者の成績も他学科のそれにくらべて不良であり、将来キリスト教神学の理論的または実践的指導者として活躍しうる資質を有する者を得ることが著しく困難となつているのみならず、現実にこれらの方向に進む卒業生も極めて少数であること、(2)それに対して神学科、修士課程の維持、運営のために不均衡に多額の経費を要し、毎年相当額の赤字を計上している状態にあること、(3)近時神学科の学生、教授らの間に被控訴人大学の建学の精神と教育方針に背馳する顕著な傾向、動きがみられること、以上の諸点に照らして神学科および修士課程を置く意義がほとんど失われるにいたつたことを挙げている。しかしながら、これらの理由は、一般的、対世的には、被控訴人が有する教育政策、経営方針の自主的決定権の合理的な行使として本件学生募集停止を正当化しうるものであるとしても、控訴人のようにすでに被控訴人の言明に依拠し、修士課程への進学を期待して神学科に入学し、被控訴人との間に上記のような具体的信頼関係に立つにいたつている者に対する関係において、右言明に違背し修士課程における教育役務の提供を拒否することを正当化する理由としては十分なものということはできない。神学科に控訴人のように修士課程における教育役務提供についての前記のごとき意味での期待権を有する者があるかぎり、被控訴人において少なくともこれらの者に対する関係で右役務提供義務を免れうるためには、上記のような一般的正当理由以外に更に右措置をやむをえないとすべき特段の理由を必要とするものというべきところ、かかる特段の理由については、被控訴人によるなんらの主張、立証もないのである(被控訴人は、例えば現に神学科に在学中の者が卒業するまでは修士課程の門を開いておくこともできたはずであり、そのために更に不均衡な経費負担を余儀なくされるとしても、これは正当な抗弁事由となるものではなく、その他右のような方法等をとりえないとすべき特段の理由は見あたらない。)そうすると、被控訴人の本件学生募集停止は、控訴人に対する関係で正当な理由のない言明違背に該当するといわざるをえない。

(三)  そこで進んで被控訴人の本件学生募集停止によつて控訴人が神学科三年に編入学した目的を十分に達することができず、社会観念上看過することのできない損害をこうむつたと認められるかどうかを検討する。

(1) 神学科研究または伝道を志して神学科に入学する者にとつては、一般に修士課程に進学していちおうの基礎教育を完成することが重要な意義をもち、特に日本キリスト教団に属する者にとつては、同教団の補教師検定試験受験上これによつて有利な地位に立つこととなるものであることは、さきに述べたとおりであり、これらの点からすれば、神学四年の課程の履修のみでは中途半端であることを免れず、その修了後更に修士課程に進学することができなければ、神学科における履修の目的ないしは価値が、かなりの程度において失われるものと考えることができる。被控訴人は、神学科の課程はそれ自体まとまつた教育としての意義ないし価値を有し、これを卒業すれば一定の資格を取得することができ、これに基づいて更に他大学院の同種修士課程に入学することもできるし、また、右資格をもつて前記補教師検定試験受験上一定の待遇を受けることもできるのであるから、たとえ被控訴人の大学院修士課程に進学できなくても、神学科の就学契約の目的、意義はなんら損われることはないという。しかし、一般に大学、特に私立大学にあつては、そのそれぞれが独自の建学精神、教育方針、教授構成、校風、教授と学生の全体から醸し出される雰囲気等の教育環境において独自性をもち、形式的な資格その他において同一または類似するものがあつても、価値的にみて容易に他と代替しうるようなものではなく、被控訴人大学神学科に入学する伝道等志望者もまた、通常これらの点を考慮に入れて被控訴人大学を選び、特段の事情のないかぎり、同課程の修了後更にその延長ともいうべき被控訴人大学院の修士課程への進学を予定して右神学科に入学するものと考えられるから、右のコースを辿ることは神学科入学における重要な一要素をなしているものとみるのが相当であり、被控訴人大学院の修士課程に進むか他大学院のそれに進むかは価値的にあまり変りはないとしてさほど重視されないものとはとうてい考えることができないのみならず、日本キリスト教団の認可神学校として被控訴人大学院の修士課程と同一の資格をもつそれを有する他大学院の数が限られていて、そこに進学するには経済的、精神的に特別の負担を伴う可能性があることからいつても、他大学院の修士課程への進学の途が存することの故をもつて、被控訴人大学院の修士課程に進学することが神学科就学契約において特段の意義や価値をもたないとすることはできない。また、日本キリスト教団の補教師検定試験の受験上認可神学校である大学院修士課程修了者が学部のみの修了者に比し格段有利な地位に置かれていることも、すでに述べたとおりである。被控訴人の上記主張は、いささか形式論に過ぎ、事の実質を正当に把握、評価するものとはいえず、採用できない。

(2) のみならず、特に控訴人についていえば、控訴人は、前述のように、東京大学法学部政治学科卒業後伝道者を希望して当初被控訴人大学院の修士課程に入学しようとしたのであるが(成立に争いのない乙第一八号証によれば、被控訴人大学以外の大学において聖書神学以外の学科を卒業して被控訴人大学院修士課程に入学した者は昭和三三年から昭和四五年までの間に一二名あり、その中には一橋大学法学部、東京経済大学経済学部、明治学院大学社会学科等の出身者もあることが認められる。)、神学科主任田島教授との進学相談において、同教授から神学科三年に編入学して同科の後期教育を受けたうえ修士課程に進学するのが望ましいと勧奨され、直接修士課程に進むことを断念して神学科三年に編入学したものであることはさきに述べたとおりであるから、控訴人にとつては、神学科への編入学はむしろいわば修士課程における履修の準備行為ともいうべきものであり、もし将来修士課程への進学が不可能となるおそれがあるとすれば、当然直接修士課程に入学するか、または別の方途を選んだであろうと考えられ、その意味において、控訴人の場合には、将来における修士課程への進学は神学科三年への編入学契約締結において特に重要な目的をなしていたものと認めることができる。

(3) <証拠>ならびに弁論の全趣旨をあわせると、控訴人は神学科三年に編入学後同科においてもとAコースで必須とされていた科目を履修し、修士課程に進学すべく学内選抜試験の実施を鶴首待機していたこと、従来神学科卒業者で右試験を受けた者は全員合格しており、控訴人も試験が行われれば確実に合格したであろうと考えられること、被控訴人は本件学生募集停止後の措置として、修士課程への進学を希望していた控訴人を含む五名の者に対し、神学科教授を通じて他大学の大学院修士課程への進学を指導し、控訴人を除く他の四名はこれに応じて関西学院大学、東京教育大学、立教大学の各大学院修士課程に進学したが、ひとり控訴人のみは、同人が被控訴人大学を選んだ理由が被控訴人大学の修士課程においてその尊敬する佐竹明教授、浅野順一教授らの指導を受けられることを期待したためであることなどから、学生募集の再開を信じ、かつ、期待して他大学の大学院修士課程に進むことをせず、昭和五一年三月にいたり、被控訴人において正式に修士課程の廃科届を文部省に提出してこれを廃科したため、ようやくあきらめて立教大学の大学院修士課程キリスト教学科に進学したものであること、以上の事実が認められる。

右(1)ないし(3)において認定ないし指摘した諸点に徴すると、控訴人は、被控訴人の勧奨に依拠し、これを信頼して被控訴人大学院修士課程に直接進学することを断念して、学部神学科三年に編入学して同科卒業後修士課程に進学する途を選んだところ、被控訴人の本件学生募集停止により修士課程への進学が不可能となり、神学科三年に編入学した当初の目的を達することができず、同科における履修は控訴人にとつてその価値を大きく減ずるにいたつたのであるから、控訴人が修士課程に進学しないで神学科三年に編入学したことによる負担はその有すべかりし意義を相当程度において実質的に失つたものというべく、控訴人がこれによつてこうむつた損害は、社会観念上看過することのできない程度のものであると認めるのが相当である。被控訴人は、前記のように、被控訴人が控訴人に対して他大学の大学院修士課程に進学するよう指導したにもかかわらず、控訴人は自己の意思でこれに従わなかつたのであるから、控訴人の損害はいわばみずから招いたものというべきであつて、被控訴人の責任ではないというもののようであるが、かかる控訴人の態度は、控訴人が修士課程に進学する機会を失つたことによつてすでに生じた損害についての被控訴人の責任の有無になんらの影響を及ぼすものではなく、右は単に損害賠償額の算定にあたつてしんしやくされるべき事由にすぎないというべきである。

以上のとおりであるから、被控訴人は、控訴人に対し、被控訴人の上記信頼違背行為によつて控訴人がこうむつた上記損害を賠償すべき義務があるといわなければならない。

4  そこで損害賠償の額を検討するのに、控訴人がこうむつた上記損害は無形的なものであり、これが賠償の方法としては、これによつて控訴人がこうむつた精神上の苦痛に対する慰藉料の支払によることが適当であると考えられるところ、当裁判所は、上に述べた諸般の事情をしんしやくし、右慰藉料の額は金三〇万円をもつて相当と認める。

そうすると、控訴人の当審における上記追加請求は、被控訴人に対し金三〇万円およびこれに対するその支払催告の日(控訴人が原審において第二次的請求を追加する旨記録した準備書面が被控訴人に送達された日が昭和四八年八月一七日であることは記録上明らかであるところ、右準備書面には不法行為を原因とする慰藉料の請求の記載しかないが、右書面は当審において追加した信義則違反を原因とする慰藉料の請求についても催告の効力を有するものと解すべきである。)の翌日である昭和四八年八月一八日から完済にいたるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるが、その余は理由がないといわなければならない。

五結論

以上の次第であつて、控訴人の第一次的請求および不法行為を原因とする第二次的請求はいずれも理由がなく、これを棄却した原判決は結局正当であり、控訴人の控訴は理由がないから、これを棄却すべく、控訴人の当審における追加請求は上記判示の限度において正当としてこれを認容し、その余は失当としてこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、九二条、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(中村治朗 蕪山厳 高木積夫)

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